こんなんでもいっか。

今までのはちゃめちゃな人生を通して、今、思うこと。

障害を有するということ。

障害を有するということ。

 

そういう自分と生きること。

 

周りの大切な人に障害があって、その人と生きること。

 

決して簡単ではない。

 

 

"障害を有する"それは何を意味するのか。

 

障害、と一口に言っても様々な種類がある。

 

障害者手帳だけでも3種類。

 

身体機能の障害を有する方、若しくは内臓に機能障害が起きる内部障害を有する方も、

身体障害者手帳を取得されるかもしれない。

 

知的障害を有する方、もしくは脳性麻痺等の先天性の身体障害に伴う知的障害を有する方、知的障害だけでなく発達障害も併発している方も、

療育手帳を(も)取得されるかもしれない。

 

精神疾患と呼ばれる病気(気分障害統合失調症、パーソナリティ障害、ストレス関連障害など)を有する方、知的障害を伴わない発達障害

(チック症やトゥレット症候群を含め)を有する方、てんかんをお持ちの方、なども、

精神障害者保健福祉手帳を取得されるかもしれない。

 

こうやって、つらつらと書くと、

一口に「障害」と言っても様々な状況の方の姿が思い浮かぶかもしれない。

 

障害を有するということはどんなことなのか。

 

私には外見からわかりにくい障害がある。

 

その立場からして書いてみたいと思う。

 

 

相手の"これくらい出来て当たり前"という「価値観」に上手く適応しきれないことが障害だと感じている。

 

出来て当たり前は、人それぞれなのだが、

 

私は視力が悪いなりに眼が見えるし、日常生活に困らない程度には耳も聴こえる。それが私にとっては当たり前のことになってる。

 

でも、視覚障害を有する方、聴覚障害を有する方はどうだろうか。矯正器具を装用すると少し見える弱視なのか、光を感じることもなかなか難しい全盲と呼ばれる状況か、補聴器を使ったら少し音が聞き取れるのか、補聴器を使ってもなかなか音が聞き取れない状況か。

 

それぞれに幅はあるものの、

私の当たり前はその方々と違うものになるであろう。

 

私には外見からわかりにくい障害がある、と言った。

 

私は歩くことも走ることも人並みに出来る。

でも、微細な運動の殆どは年齢の平均から見ると恐らく極端に苦手な状況だ。

ボールを投げるなど、下肢と上肢をスムーズに動かしつつ、目で目標の方向を追う(見る)という

身体の複数の器官を協調させながら動かす、

協調運動もかなり苦手だ。

体幹も強くない。

 

 

でも、私は身体障害者ではない。

 

それは、筋肉にも骨にもなんら問題はないからである。

 

私は近視があるとは言え、物を見ることに対して、例えばメガネやコンタクトなどの矯正器具があれば問題はない。

視力を司る器官に大きな問題はない。

 

でも、目で見たことを覚えることが苦手だ。

本に書いてある文章を追うことも苦手だ。

小中学生の時は、国語のテストの漢字は読めるし、問題なく書けても、何故ペケをつけられるのか、どの部分を書き間違えているのかわからない漢字が何個かあった。

 

見えていても、見きれないし、わからないのだ。

 

 

障害を有するということは、相手の"これくらい出来て当たり前"という「価値観」に上手く適応しきれないことが障害だと感じている。

 

と書いた。

 

そして、その"相手"と呼ばれる対象が割と大多数なのである。

 

だから、外見からわかりにくい障害を持ちマイノリティとされることの多い私も、時に大多数を占める側、すなわちマジョリティにもなる。

 

私は、先天性なのか、小児期逆境体験故の後天的なものなのか、判別は殆ど出来ないに等しいが、

発達障害、と呼べる状態を示している。

 

気づけば、「何でこんなことも出来ないの?」と言う言葉をかけられていることもある。

 

SNSで「発達障害あるある」というワードや、「私ADHDなんで(笑)不注意なのー。ごめんー、許してー笑」という言葉も時々目にする。

 

発達障害を有するとは言え、人間なので、

同じ障害名でも困っていることなどは大きく異なる場合も多い。

 

100人いたら100通りの特性組み合わせがあるから、

「あるある」が全てでは無いと思う。

 

(以下の文章は発達障害(グレーゾーン)や軽度知的障害(こちらもグレーゾーン含む)、精神疾患など外見からわかりにくい障害や疾患の診断を受けているということ等、障害や疾患を有していることや、その可能性が高いを前提に)

 

でも、「何でこんなことも出来ないの?さっきも言ったよね?あなたいくつ?」と

大多数とされる相手の"当たり前"とされることがらに上手く適応しきれないのであれば、

発達障害(グレーゾーンを含む)や軽度知的障害(こちらもグレーゾーンを含む)の特性なのかもしれないし、

この記事に書いていない別のカテゴリーの困りごとがあるのならば、何かしらの精神疾患を有している故なのかもしれない、と私は感じた。

 

人間として生きるからこそ。

十人十色だからこそ、「あるある」だけでは決して括れないものだと思う。

 

そして、「私、ADHDなんで(笑)不注意なのー。ごめんー、許してー笑」は診断の有無に関わらずアウトだと思う。

 

相手に完全に頼るのではなく、成人であれば、

不注意に対して、自分の力や、インターネットでの情報収集、若しくは医療や福祉の力を借りることで、でできる対策はあることは確かだ。

 

そして、何より、

自分は仕事上でも失くし物が多くて不注意だなー

ADHDかも?

→(まあ誰かに頼ればなんとかなるから、検査とか診断とかは受けに行くつもりはないけど)ADHDって言えば許されるだろう

 

と言う障害名を自分の失敗の免罪符にするやり方は、

 

ADHD(注意欠陥多動症)の特性で本気で悩んでいる方々に失礼極まりないので、

本当にやめてほしい。

 

 

上手くまとまらないまま、つらつらと書いてしまった。

 

伝えたいこととして、

相手の"これくらい出来て当たり前"という「価値観」に上手く適応しきれないことが障害だと、今までを生きてきた中で感じていること。

 

加えて、障害を免罪符として使って相手を頼りきり依存するのはアウトだ、ということも伝えたい。

 

障害を有する自分と生きること。

 

障害だけじゃなく、色々な側面がある自分と生きるということ。

 

難しいながらも、明日に向かって、今日も歩を進めていく。