こんなんでもいっか。

今までのはちゃめちゃな人生を通して、今、思うこと。

どんな人も攻撃性も持ち併せている。

 複数の種類の発達障害(正確には一部アタッチメント障害との鑑別がムズい状態)を有している私なので、偏見を持たれてきた経験は多くて。

はい。

 

 なんというか、偏見を持たれるのは、診断名自体にもなんですがね、

特性と呼ばれることに対してもでして。

 

 不注意・多動衝動性が強い=「この人はADHD

 ん??この一言で済ませてしまうのは、

 ちょっと乱暴ですよね🤦‍♀

 

 コミュニケーションが苦手、人を避け上手く 関われない、切り替えが遅い=「この人はASD」 これも、ちょっと乱暴ですよね🤦‍♀

 

 ASD/ADHDの人はみんな〇〇が苦手だから、

こういう対応を、ってそれもなぁ。

 

 そもそも、ASD自閉症スペクトラム障害)とADHD注意欠陥多動性障害)に近い特性(症状)がある私なので両方とも心理検査を受けたんですが、一つの質問の答えだけで、

「あなたはASD/ADHDです。」とは決まらないんですよね。

 

下手すると質問が何十問も書いてある用紙に地道に丸をつけていく作業をして。

地道に昔を振り返りながら、今の困り感も思い出しながらと、ちょっとハードだったりもして。

 

+で知能検査なんかもあるから私はヘトヘトでした。ほんとに(泣)

 

その質問用紙の回答から病院の臨床心理士(若しくは公認心理師)が得点を集計して、それを踏まえて、基本的には担当の医師が診断名と特性を伝えることになっていまして、という訳ですね。

(医師だけでなく心理士さんも結果を伝えてくださることもあるかもしれません。検査結果を見やすく報告書としてまとめて下さる場合もあります。)

 

当事者(若しくはご家族や養育者)と医師や心理士と決められた手順を踏まえて大変な思いをしながら、それでも協力しあって可視化していくんですよね、診断名になり得るものも、凹凸の具合なども。

診断を受けるまで絶望し、葛藤してきた道のりもそれぞれある訳で。

 

学校に通われている年齢であれば、このプロセスでも、子さんの学校の先生に協力していただける場合もあるのかもしれません。

 

決して見たことから一言で言えるものでは無いんですよね。診断名も特性も。

 

 

 どんな人も攻撃性も持ち併せている、という

タイトルですが、

 

"心の中にある全ての偏見を消せ!"というのも、下手すると、独裁的な方向に向かう危うさがありますよね。

 

その中で、攻撃性という名の偏見を持ちつつも、自分が持つその偏見をいかにその人に向けないか、それが大事だなと思うこの頃です。

 

障害があること、病気があること、

 

産みの親と暮らしているのかいないのか、

 

パートナーがいるのかいないのか、

 

自分が生まれた時の性別についてギャップがあるのか、無いのか。

 

自分の親という立場の人が一人なのか二人なのか、それとも、もっと沢山いるのか、

 

どこの国に自分のルーツがあるのか、

 

自分の子どもが生まれてきた時に何かあったのか

無かったのか、

 

背が高いのか低いのか、

 

 

車椅子に乗って移動しているのか、

生まれつきの多動傾向によって、いつも走り回っているのか。

 

生まれつきのこと、生育歴のこと、病気のこと、他にも多くのことが、その人の力だけでは、

そこに向き合う人の力だけでは、どうにもならないことですよね。

 

 

生きていて人を嫌ったり疎ましくはみんなあります、きっと。

 

 

でも、その鋭利な言葉や感情をわざわざ人に向ける必要もないですよね。

 

 

障害を有している私も偏見を持つことはあります。

私も人を嫌うことはあるし、疎ましく思うこともあります。ひとりの人としてあります。

 

でも、

"その偏見をいかにその人に向けずにいられるか"

"自分の無理解によって人を追い込んでしまわないか自制・自省していくこと"

 

それが生きていく中で大切だと思いました。

 

偏見を意識的に向けてしまっていないかということだけではなく、無自覚な偏見を持っていないかということに対してもです。

 

後は、「私は人に偏見を持つことはない」と豪語せず、

「知らないこと」に対して、「ごめん、わからない」ときちんと言える力が、

知ったかぶりの自論で相手の大切なことに踏み込んでいかない制御力が、人を守ると思います。

 

 

 

"偏見を無くす"というゴールは限りなくできないに等しいでしょう。

 

でも、社会的養護、障害、病気など、私が広く伝わっていってほしいな、と思っていることをここで言葉にしていくいくことが、

この文章から何を感じ取ってくれる人が少しずつ増えていくことが、

少しでも誰かの生きづらさに寄り添える力に変わったら嬉しいです。

 

(めちゃくちゃ拙い文章を書いてる分際で何を言ってるんだ、私は)