こんなんでもいっか。

今までのはちゃめちゃな人生を通して、今、思うこと。

将来困ったのは勉強が出来ないことじゃなかった。

「勉強しないと将来困るぞ」

「あんたのために言ってるんだ」

「そんなことも出来なくて恥ずかしくないのか」

「お友だちより下手で恥ずかしくないの?」

 

割と親や一部の学校の先生よく言われてきた言葉だった。

 

当然だが、勉強は得意なことに損はない。

 

勉強以外のことでも、何か得意なことがあったら楽しいだろう。

 

 

でも、

当時、将来と呼ばれていた"今現在"を生きる上で私が困っているのは、

 

人や周りの環境に怯えてしまうことで。

 

 

数学が、英語が、社会科が、理科が、古典が出来ないから、体育や美術が苦手だから、とうのはある程度まで大きくなると、正直、他の方法で代用できる訳で、困ることも少ない。高卒後に私は数学の関数を使う職業に就いてはいないし、生物や物理の知識もほぼ使っていない。

 

それでも、どうにかなる。

 

でも、人との関わりが怖いと、周りの環境からの光や音、触り心地などの物理的な刺激に弱く、

また環境の変化が怖く適応するために気力と労力を大量に持って行かれるのだと、

 

その方が困ってしまうのである。

 

この時期、「節分の鬼に小さな子どもが泣く」という場面は多いが。

 

泣いてる子どもを面白がるのは良くないと思う。本来、節分は子どもを泣かすための行事では無いし。

 

私が節分で泣いたかなんて記憶にもないし、

節分で何かをしたか?という記憶も、小学生の時の節分の行事で、鬼のお面を着けた教頭先生か誰かに向かって「鬼はー外!」と全力で豆を投げつけたことぐらいしか残っていない。

 

でも、泣き叫ぶほど怖くて極端に嫌がっていることをさせられた挙句、ネタにされるのは決して良いことではない。

 

まだ私が小さい頃、当時の私にはこれを見せたらギャン泣きする、という物があって。

何故これで泣くのかもわからないし、ギャン泣きする顔が面白いという理由もあって、何度も見せて私を泣かしたというエピソードは、親戚の集まりで度々笑い話として親の口から上っていた。

 

結局のところ、未だにその物品やその物品の色を見るのもキツイ訳だし。

 

何度、「やめてよー(汗)」と言ってもいきなり身体を触られたら(向こうは親子のスキンシップ?だと思っている)、医療行為など必要なはずの人との身体接触が怖くなるわけだし。

 

容姿を散々disられたら、親に隠れて家ではない場所で食べ吐きすることになり。その面影も残っていて。

 

親や教師などの大人たちからの暴力や暴言で行動を調整していたら、暴力・暴言の無い世界でも生きることが怖くなってしまった。

「今は何もされなくても、いつか、この人からも何かされるのでは…」、「殴られないことに裏があるのでは…」と。

 

 

 

 

成人後の私を苦しめているのは、決して勉強が出来ないことでは無かった。

 

人が怖いということ、周りの環境が怖いこと、

生きることが怖いということなんだ。

 

生き方がわからないんだ。

 

勉強が得意ということ自体に何も損はない。

知識は人として生きる中で強みに変わるし、何をどれ程学んできたかは、職業選択にも大きく影響する。

 

運動が得意なら健康を保つことも苦手な人よりスムーズかもしれないし、芸術的な活動が得意なら沢山のことに感動したり、その得意を使って思いっきり余暇を楽しむことが出来るかもしれない。

 

 

でも、私はそこに行くまでの、もっと根本的な部分が激しく欠落している。

 

普通の人としてその場に溶け込み、普通を演じることは出来ても、何か大きな欠落があるからこそ、穴に落ちた瞬間に身動きが取れなくなる。

 

私が将来困ったのは、

勉強が不得手だったことではなく、

自分の気持ちが分らず、自分を生きることが出来ない、ということだったんだ。